研究内容
私たちはコンピュータを使って分子のふるまいを調べる計算化学の研究室です。量子化学や分子動力学、機械学習を組み合わせ、3つのチームでそれぞれのテーマに取り組んでいます。
計算化学とは
計算化学は、コンピュータで分子を計算し、その性質やふるまいを調べる化学です。ビーカーや試験管を振る代わりに、 シュレーディンガー方程式やニュートンの運動方程式をコンピュータで数値的に解いて、電子の分布や原子の動きを求めます。
なぜわざわざ計算するのか。実験では見えないものが見えるからです。反応が起きるまさにその一瞬、分子の中で電子がどう動いているか、 タンパク質が水の中でどう揺らいでいるか。こうしたミクロなできごとは、装置で直接のぞくのが難しい。 計算なら、原子の位置やエネルギーをひとつずつ追いかけられます。
実験の前に予測しておく、という使い方もあります。作りたい材料の候補が100種類あるとき、全部を合成して試すのは大変です。 先に計算で当たりをつけておけば、有望なものから実験できる。実験と計算は、どちらかが正しいというより、 互いの答え合わせをしながら進めます。
計算の中身は、突きつめれば方程式を解くことです。ただし、電子が数十個あるだけで厳密には解けなくなるので、 どこをどう近似するかが腕の見せどころになります。精度と計算量のつり合いをとりながら、 扱いたい分子の大きさや現象に合わせて、次の手法を使い分けます。
研究手法
Quantum chemistry
量子化学
3行でまとめ
- 対象
- :ひとつの分子の中の電子
- 武器
- :シュレーディンガー方程式と近似
- 分かること
- :軌道のエネルギー、吸収する光の色
電子のふるまいは、ボールの運動とは違うルール、量子力学にしたがいます。その基本になるのが、シュレーディンガー方程式です。
ĤΨ = EΨ
左辺の Ĥ(ハミルトニアン)は分子のエネルギーを計算する演算子、右辺の E がそのエネルギーです。Ψ(プサイ)は波動関数と呼ばれ、電子が分子のどこに、どれくらいの確率で存在するかの情報をすべてもっています。マスコットの兄テオが手にしている杖は、このΨがモチーフです。
この方程式を解くと、電子の入る軌道とそのエネルギーが分かります。高校化学で習う電子殻(K殻、L殻…)を、分子全体についてずっと精密にしたものと考えてください。 軌道のエネルギー差は、その分子が吸収する光の色に対応します。だから色素や発光材料の色は、合成する前に計算で予測できます。
ただし、この方程式が紙と鉛筆で厳密に解けるのは、電子が1個しかない水素原子まで。電子が増えたら近似とコンピュータの出番で、 どこまで速く、どこまで正確に近似できるかが、この分野の研究テーマそのものになっています。
「エネルギーがとびとびになる」のを体験できるのがこちら。もっとも単純な量子化学の問題、箱(井戸型ポテンシャル)の中に閉じ込めた電子です。量子数 n を選ぶと、電子の波(波動関数)が箱にちょうど収まる形に変わります。右のエネルギー準位が n=1, 2, 3… ととびとびに並ぶのは、この「ちょうど収まる形しか許されない」ことの裏返しです。箱をせまくすると波は縮み、右の準位はぐっと上がって間隔も広がります(狭い箱に閉じ込めるほどエネルギーが高くなる)。
スライダーで井戸の幅を、ボタンで量子数を変えられます。
エネルギー準位
Molecular dynamics
分子動力学
3行でまとめ
- 対象
- :何十万個という多数の原子・分子
- 武器
- :ニュートンの運動方程式(F = ma)
- 分かること
- :タンパク質や材料の中で分子が動くようす
原子ひとつひとつを小さなボールとみなして、高校物理でおなじみのニュートンの運動方程式で動かします。
F = ma
結合のバネ、分子同士の引力や反発。いま各原子に働いている力 F を計算して、その力にしたがって全原子をほんの少しだけ動かす。 この「少し」は約1フェムト秒、1000兆分の1秒です。これを100万回、1億回と繰り返すと、分子が動くようすがコマ送りの動画として得られます。
タンパク質が水の中で形を変えるようすや、材料の中を分子が広がっていくようすは、この方法でようやく見えるようになります。 電子を直接は扱わないという大胆な割り切りと引きかえに、何十万原子という大きな系を長時間追える。それが分子動力学の持ち味です。妹テラの砂時計は、この「時間を追いかける計算」がモチーフです。
実際に動かせるミニ分子動力学がこちら。約90個の粒子を、いま説明したとおりに力を計算しては少しずつ動かして、ブラウザの中で走らせています(使っているのは速度Verlet積分という定番の計算法で、粒子はレナード・ジョーンズ流体という単純なモデルです)。温度を下げていくと、凝縮して結晶ができます。
温度スライダーを動かすと、気体→液体→結晶と姿が変わります。
Machine learning
機械学習
3行でまとめ
- 対象
- :すでに計算・実験した分子の構造と性質のデータ
- 武器
- :データから規則を学ぶモデル(性質 ≈ f(構造))
- 分かること
- :まだ調べていない分子の性質の予測
精密な計算にも実験にも、時間がかかります。ひとつの分子の計算に数日、というのも珍しくありません。候補が1万種類あったら、全部は無理です。
性質 ≈ f(分子の構造)
そこで、すでに計算・実験した分子のデータをコンピュータに学ばせて、構造から性質を言い当てる規則 f を作ります。 規則さえ手に入れば、まだ調べていない分子の性質を一瞬で予測できるので、有望な候補だけを選び出して精密な計算や実験にまわせます。 この考え方で材料探しを速くする分野は、マテリアルズ・インフォマティクスと呼ばれています。
最近では、量子化学計算の結果を学習して、量子化学なみに正確な力を分子動力学に渡す、機械学習ポテンシャルという使い方も広がっています。 上の手法マップで機械学習がふたつの手法を包んでいたのは、このためです。
その学習を自分で試せるのがこちら。グラフをクリックしてデータ点(調べずみの分子)を置くと、機械が規則の曲線を引き、新しい分子の予測値(ローズの点)を出します。「規則の複雑さ」を上げると、点をぴったり通るかわりに曲線が暴れます。学習しすぎて、新しいデータをうまく予測できなくなる過学習という失敗です。
グラフをクリックして点を置いてみてください。
Quantum computing
挑戦中のテーマ量子コンピュータ
3行でまとめ
- 対象
- :分子の量子状態そのもの
- 武器
- :量子ビットの重ね合わせ
- 分かること
- :いまのコンピュータでは大きすぎて解けない分子の性質を解く方法そのもの
分子の中の電子は量子力学にしたがいます。それを普通のコンピュータで計算しようとすると、電子が増えるたびに必要な計算量が爆発的に増えます。量子化学の節で「近似が腕の見せどころ」と書いたのは、このためです。 それなら、計算する機械そのものを量子力学で動かせばいいのではないか。これが量子コンピュータで化学を計算するという発想です。物理学者ファインマンが1980年代に量子コンピュータという構想を示したときも、その出発点はまさに自然のシミュレーションでした。
量子ビットは、0と1の「重ね合わせ」状態をとれます。n個の量子ビットは2のn乗とおりの状態を同時に抱えられるので、電子の配置の場合の数が爆発する分子の問題とは、相性が良い。 分子のエネルギーを量子コンピュータで求めるアルゴリズム(変分量子固有値法、VQEなど)が、いま世界中で研究されています。
そのVQEの心臓部を、ここで体験できます。
スライダーで量子ビットの角度を変えて、エネルギーがいちばん低くなるところを探してください。
量子ビットの状態
エネルギー E(θ)
E = −0.230 ハートリー
これまでのベスト:−0.230
正直に言うと、いまの量子コンピュータはまだ量子ビットの数が少なく、ノイズにも弱いため、スーパーコンピュータに勝てる場面は限られています。 上の手法マップに載っていないのは、守備範囲がまだ定まっていないからです。教科書も、まだ書きかけの分野です。だからこそ、いま始める人がこの分野の最初の世代になります。
やまラボでも、高校生向けイベント「量子コンピュータで切り拓く未来の化学」を開催するなど、この分野に注目しています。 マスコットの世界で量子コンピュータが「虚の精霊」——まだ誰も使役できていない精霊——として描かれているのは、この現在地の正直な表現です。

