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コンピュータのなかの実験室 Web 版 序章

コンピュータのなかの実験室

フラスコの並ぶ実験室とは別に、コンピュータの中にも実験室があります。天気予報をたとえに、計算化学とは何かをつかみます。

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空を観測する、空を計算する

明日の天気は、どうやって予想しているのでしょうか。予報する人が空を見上げて、雲の形から勘で決めているわけではありません。 気象庁のコンピュータが、地球をおおう大気がこれからどう動くかを、物理の法則にしたがって計算しています。 コンピュータの中で、明日の空を先に作ってみているのです。

空を観測して分かるのは、今の空です。そこで、観測した今の空から、明日の空を計算で求めます。 このように、コンピュータで大気の状態の変化を計算して天気を予測することを、数値予報と呼びます。

ただし、空気は切れ目なくつながっていて、そのままではコンピュータに渡せません。そこで、大気を縦・横・高さに細かく区切り、 マスの集まり(格子)として表します。マス1つには、気温・風・水蒸気の量・気圧などの数を1組ずつ持たせます。

地球の大気を格子のマスに区切ったようす。マス1つが、気温・風・水蒸気の量・気圧の数を1組もつ。
大気を格子のマスに区切ったようす(模式図)。地球の上の格子の線は、本物(約13 km間隔、高さ方向に128層)よりずっと粗く描いています。マスの中の値は例です。

本物の空を、コンピュータで計算できる形に置きかえたものをモデルと呼びます。 モデルを、決まった規則にしたがってコンピュータの中で動かし、どうなるかを調べることが、シミュレーションです。 空を測るのが本物の観測なら、数値予報はコンピュータの中の実験です。

天気予報を3つの問いで読む

コンピュータの中の実験で、コンピュータが何をしているかは、次の3つの問いを立てるとよく分かります。 何をモデルにしたか、何をくり返したか、どこまで信じられるか、です。このあとの第 1〜5 章も、最後にこの3つの問いでまとめます。

何をモデルにしたか

答えは、格子のマスです。マスの中は1組の数で表すので、マスより小さなものは、1つ1つを表せません。

幅約13 kmのマスを同じ縮尺で並べた図。100 kmほどの現象の中にはマスがいくつも並ぶので形を表せるが、積乱雲1つはマス1つほどの大きさで、形を表せない。
同じ縮尺で描いた、マスと現象の大きさ(形を簡単にした絵)。積乱雲1つの広がりは数 km〜十数 kmで、ここでは10 kmで描きました。

何をくり返したか

あるマスの少し先の気温を、手で計算してみます。幅13 kmのマスが東西に3つ並び、風は西から東へ秒速10 mで吹いています。 5分後、真ん中のマスの気温は何 ℃になるでしょうか。

🖐 さわってみよう本の図 序-4・序-5

明日の気温を計算する

風が気温を運ぶことだけを考えた、簡単なモデルです。まず予想してから、「5分進める」を押してみてください。

いま 風 秒速 10 m →

西のマス

℃

真ん中のマス

℃

東のマス

℃

マス1つの幅は 13 km。5分で、風は 3 km 進みます。

予想してみよう:5分後、真ん中のマスの気温は?

濃い色の帯が、5分のあいだに西のマスから入ってくる空気です。くり返すときは、いちばん西のマスを 20 ℃のままとしています。

答えは約16.2 ℃です。本物の数値予報では、風や水蒸気の量や気圧もいっしょに計算します。 地球全体を計算するモデルは、これをすべてのマスについて、時間を5分ほどずつ進めながらくり返します。マスの計算は、合わせて1兆回を超えます。

コンピュータがなかった1920年ごろ、イギリスのリチャードソンは、格子に区切った大気の計算を手でやってみました。 6時間先の予報を出すのに1か月以上かかったうえ、計算の結果は大きく外れて、予報としては使えませんでした。

テラ
6時間先の空に、1か月以上! 答えが出るころには、その空はとっくに過ぎているね。くり返しは、コンピュータの出番だよ。

どこまで信じられるか

計算を始めるときの大気の状態は、観測しきれなかった分だけ不確かで、先の予報になるほど外れやすくなります。 数値予報を信じられるものにしてきたのは、毎日の答え合わせです。出した予報をあとで観測と比べ、分かった弱点をもとにモデルを直してきました。 この流れは計算化学でも同じで、第 6 章でもう一度取り上げます。

分子でも、同じことができる

分子をつくる原子や電子も、物理の法則にしたがって動きます。それなら、天気予報と同じことが分子でもできるはずです。

天気予報と計算化学を、法則・モデルと式・コンピュータ・予測の4つの箱で上下に並べた図。どちらも同じ流れで進む。
天気予報(上)と計算化学(下)は、同じ流れで進みます。青い箱が、コンピュータの仕事です。
計算化学とは、分子のモデルを作り、その規則にしたがってコンピュータにくり返し計算させ、実験の前に結果を予測することです。

計算化学は、フラスコの並ぶ実験室とは別に、コンピュータの中にもう1つの実験室を作ります。

よくある誤解に、「シミュレーションは、答えを前もってコンピュータに教えてあるから、その答えが出てくる」というものがあります。 数値予報のコンピュータは、「台風はこう進め」とは教えられていません。渡されるのは、今の大気の状態と、空気の動きの規則だけです。 分子も同じで、第 1 章では、分子どうしが引き合う規則だけから、水と油が分かれていくようすを見ます。

分子の世界は、小さくて速い

なぜ分子を、わざわざコンピュータの中で調べるのでしょうか。理由の1つは、分子がとても小さく、しかもとても速く動いていることです。 1 mmの水滴を地球の大きさまで拡大しても、その中の水分子は4 mほど、乗用車くらいにしかなりません。

1 mmから1000万分の1 mmまで、目盛り1つで10分の1になる物差し。水滴・インフルエンザウイルス・ノイラミニダーゼ・タミフルの分子・水分子が並ぶ。1 mmの水滴を地球の大きさにすると水分子は4 mほど。
大きさの物差し。目盛りを1つ下るごとに、大きさが10分の1になります。

次に、速さです。室温の水分子は、平均で秒速590 mほどで動いています。音の速さ(秒速350 mほど)よりも速いのです。 分子の世界の出来事は、1000万分の1 mmという大きさと、1兆分の1秒という短い時間の中で起こっています。

25 ℃の水分子の平均の速さ(秒速約590 m)と音の速さ(秒速約350 m)の比較と、1兆分の1秒に進む距離が水分子2個ぶんほどであることを示す図。
25 ℃の水分子の平均の速さと音の速さ(左)。右は、その速さで1兆分の1秒のあいだに進む距離です(まわりの分子にぶつからないとしたとき)。

これほど小さくて速いと、分子が動くようすを実験で1コマずつ追うのは、とてもむずかしくなります。 コンピュータの中なら、分子のモデルを1コマずつ止めて、原子の位置や電子の広がりを調べられます。

ノーベル化学賞でたどる計算化学

分子をコンピュータで計算する研究は、1960年代に、分子の中の電子を表す方程式をコンピュータで解き始めたころから、大きく進みました。 その歩みは、ノーベル化学賞にも表れています。

  1. 1998年

    コーン、ポープル

    分子の中の電子を計算する方法

    電子を見るへ

  2. 2013年

    カープラス、レヴィット、ウォーシェル

    大きな分子の化学反応を計算するモデル

    分子の動きを見る・電子を見るへ

  3. 2024年

    ベイカー/ハサビス、ジャンパー

    タンパク質の設計と、人工知能で構造を予測

    薬の候補を探す・データから学ぶへ

テラ
電子の計算も、タンパク質の計算も、人工知能も、みんなノーベル賞につながったんだね! この本で順に見ていくよ。

計算化学の4つのはたらき

計算化学が化学の研究でしていることは、大きく4つのはたらきに分けられます。 小さくて速くて実験では見えにくい分子の動きや電子を「見る」。何億もの候補の分子から、薬になりそうな分子を「探す」。 分子を作る前に、その性質を「予測する」。たくさんのデータから、規則を「学ぶ」。

このうち「見る」だけは、分子の動きを調べる第 1 章と、電子を調べる第 2 章の2つに分けました。 どの章も、まず本物の実験や観察で調べ、次に同じことをコンピュータの中で試す、という順に進みます。

  1. 第 1 章 見る・分子動力学

    分子の動きを「見る」→

    本物の実験:
    水と油を振って、分かれるのを見る
    コンピュータの中:
    分子を1個ずつ動かす
  2. 第 2 章 見る・量子化学

    電子を「見る」→

    本物の実験:
    炎色反応やホタルの光の色を見る
    コンピュータの中:
    電子を計算して、光の色を求める
  3. 第 3 章 探す・ドッキング

    薬の候補を「探す」→

    本物の実験:
    酵素のはたらきが、薬の候補で止まるかを調べる
    コンピュータの中:
    候補の分子を酵素に置いて、結合の強さを点数にする
  4. 第 4 章 予測する・ケモインフォマティクス

    体に届くかを「予測する」→

    本物の実験:
    水とオクタノール(油)を振って分ける
    コンピュータの中:
    構造式から、水と油への分かれ方を計算する
  5. 第 5 章 学ぶ・機械学習

    データから「学ぶ」→

    本物の実験:
    測ったデータを表に集める
    コンピュータの中:
    データから規則を学ぶ

そのあとの2章では、ここまでの計算を振り返り、これからを見わたします。

  1. 第 6 章 実験との答え合わせ

    計算を信じてよいか→

    コンピュータの答えは、いつも正しいわけではありません。どこまで信じてよいかを、実験との答え合わせで確かめます。

  2. 終章 材料の設計

    計算化学が切り拓く未来→

    二酸化炭素をつかまえる材料を、何十万個もの候補からコンピュータで選ぶ。計算化学は、薬だけでなく材料の研究も変えています。

Web 版の目次
  1. はじめに 計算化学への招待
  2. 序章 コンピュータのなかの実験室
  3. 第 1 章 分子の動きを「見る」(分子動力学)
  4. 第 2 章 電子を「見る」(量子化学)
  5. 第 3 章 薬の候補を「探す」(ドッキング)
  6. 第 4 章 体に届くかを「予測する」(ケモインフォマティクス)
  7. 第 5 章 データから「学ぶ」(機械学習)
  8. 第 6 章 計算を信じてよいか(実験との答え合わせ)
  9. 終章 計算化学が切り拓く未来(材料の設計)