第 1 章では、水分子の O はわずかにマイナス、H はわずかにプラスの電気を帯びていることを、前もって決まったこととして使いました。 O と H のあいだで、なぜ電気がかたよるのでしょうか。そのわけは、つぶとばねのモデルで省いた電子にあります。 電子は、光の色も決めています。花火の赤や黄色、スマホの画面の色、ホタルの黄緑色の光は、どれもその例です。
電子は雲のように広がる
原子核のまわりの決まった道を、電子が惑星のように回っている絵を見たことがあるかもしれません。 けれども、電子の居場所は1本の道としては決まりません。分かるのは、どのあたりで見つかりやすいかという広がりです。 見つかりやすい所ほど濃く塗ったこの広がりを、電子の雲と呼びます。
電子がとれるエネルギーは、とびとびの値に限られています。電子は、決まった高さの段にしかいられません。 この段をエネルギー準位と呼びます。電子配置の K 殻・L 殻・M 殻も、この段を大まかに分けたものです。電子の雲の形は、段ごとにちがいます。
電子の雲の形とエネルギー準位の高さは、シュレディンガー方程式という式を解くと求まります。 この式を解いて電子の雲とエネルギーを求める分野を量子化学、コンピュータで解くことを量子化学計算といいます。
コンピュータに渡すのは、原子核の種類と位置、電子の数と、使う近似だけです。そこから分かることは、下の図の3つです。
量子化学計算では、原子核を止めて、電子だけを計算します。陽子1個でも電子の約1840倍の質量があり、電子が動き回るあいだ、原子核はほとんど止まって見えるからです。 つぶとばねのモデルとは逆に、原子核の動きを省くのです。また、電子どうしのかかわりはそのままでは複雑すぎるので、 それぞれの電子が、ほかの電子の雲を平均した力を受けると考える近似(本当の答えに近く、計算しやすい答えを使うこと)を使います。
手で1回:水素原子の雲の大きさ
電子の雲を求める手がかりは、エネルギーです。電子の雲は、エネルギーがいちばん低くなる形に落ち着きます。 電子のエネルギーは、2つの分の足し算です。1つは原子核と引き合う分で、雲を原子核に近づけるほど下がります。 もう1つは電子の動きの分です。電子には狭い所に閉じこめるほど激しく動く性質があるので、雲を縮めるほど上がります。
電子が1個だけの水素原子で、雲の大きさだけを変えて試します。雲をどんどん小さくしていくと、電子は原子核に落ちてしまうでしょうか。
🖐 さわってみよう本の図 2-4
雲を小さくすると、電子は落ちる?
つまみを右へ動かすと雲が小さくなります。3 本の棒のうち、いちばん下の「合計」に注目してください。
閉じこめで上がる分
引き合いで下がる分
合計
予想してみよう:電子と原子核は引き合っています。雲をどんどん小さくすると、電子は原子核に落ちる?
電子が 1 個だけの水素原子で、雲の大きさだけを変えた計算です。
答えは、落ちない、です。合計はある大きさでいちばん低くなり、それより小さくすると上がります。 雲の半径を半分にすると、引き合いで下がる分は2倍になりますが、閉じこめで上がる分は4倍になります。 雲を小さくしすぎると、上がる分のほうが勝ってしまうのです。
合計がいちばん低くなるのは、雲の半径が 0.053 nm のときで、そのエネルギーは −13.6 eV でした。 これは、水素原子から電子を取り去るのに要るエネルギーで、実測のイオン化エネルギー(13.6 eV)と一致します。
くり返し:電子がたくさんあるとき
水分子には電子が10個あり、マイナスの電荷どうしで押し合います。そのため、1個の電子の雲がどこに広がるかは、ほかの電子の雲がどこにあるかで変わります。 寒い日のたき火に集まる人たちに似ています。火に近づきたいけれど、混んだ所は避けたい。どこに立つのがよいかは、ほかの人の立つ場所で変わります。
そこでコンピュータは、下の図のように、雲を仮に置いては求め直すことを、雲が変わらなくなるまでくり返します。 これは電子の実際の動きではなく、答えを探す計算の手順です。
水分子で追ってみます。はじめは、O 原子と H 原子の雲をそのまま並べた雲です。 1回目では、雲は O の原子核に強く引かれて、O のまわりに集まりました(O のまわりがローズ)。ところが、集まった電子どうしは押し合います。 この押し合いは、集まる前の雲から計算した力には、まだ入っていませんでした。2回目では、それが入るので、雲は O から押し戻されました(O のまわりが青)。 こうして行き来しながら変わり方は小さくなり、7回目には、変わった所がなくなって、図が白くなりました。雲と力のつじつまが合ったのです。
🖐 さわってみよう本の図 2-6
電子の雲が決まっていく
水分子の電子の雲を、本物の計算でくり返した結果です。「次の回へ」を押すと、1 回ずつ進みます。
OHHはじめ:原子を並べた雲
O のまわりの電子の数 7.90 個
予想してみよう:水分子で、雲が落ち着くまでに、何回くり返すと思いますか?
絵が白くなると、雲が動かなくなった印です。
テオ最後に O のまわりにいる電子は 8.8 個で、O 原子 1 個の電子の 8 個より多くなりました。
原子核の位置を少しずつ動かして、エネルギーがいちばん低くなる位置を探せば、分子の形も求まります。 水分子で計算すると、H–O–H の角度は 103.9° になりました。第 1 章で見た本物の水分子の 104.5° に近い値です。
電荷のかたより
雲が濃いからといって、そこがマイナスに帯電しているとは限りません。O の原子核には、電子8個分のプラスの電荷があるからです。 手がかりは電気陰性度(結合をつくる電子を、原子がどれだけ強く引きつけるかの目安)です。
O と H の差は大きいので、結合の電子は O の側に引き寄せられ、O はわずかにマイナス(δ−)、H はわずかにプラス(δ+)に帯電します。C–H の結合には、電荷のかたよりがほとんどありません。
電子の雲を計算すれば、分子のどこがどれだけかたよっているかを確かめられます。雲がごく薄くなる所を分子の表面と決め、 マイナスに寄る所をローズ、プラスに寄る所を青で塗り分けると、メタンはどう見えるでしょうか。
答えは、ほとんど白です。水では O の側がローズ、H の側が青で、アンモニアも同じです。 第 1 章の力場でつぶに割りふった δ− と δ+ を、電子の雲から確かめたことになります。
このかたよりが、水素結合のもとです。 O–H や N–H をもつ分子は水になじみやすく、C–H ばかりの分子は油になじみやすくなります。 このちがいは、薬が水と油のどちらになじむかという第 4 章の話につながり、電荷のかたよりは、薬と酵素が引き合う力のもとにもなります。
光の色も、作る前に分かる
電子の雲とエネルギー準位が分かると、光の色も分かります。ナトリウムをふくむ水溶液を白金線につけて、ガスバーナーの炎に入れると、炎は黄色になります。リチウムなら赤、銅なら青緑です。 これが炎色反応で、花火の色もこの反応で出しています。

光の色は、波長で決まります(1 nm は100万分の1 mm)。 ナトリウムの炎からは 589 nm の黄色の光が、リチウムの炎からは 671 nm の赤の光が出ます。元素ごとに決まった波長の光が出るのは、電子のエネルギーの段が、元素ごとに決まっているからです。
炎の熱でエネルギーを受けとった電子は、上の段へ上がります。上の段は不安定なので、電子はすぐ下の段へ戻り、 そのとき上下の段のエネルギーの差(段差)にちょうど等しいエネルギーの光が出ます。 ナトリウムの段差は 2.10 eV(電子ボルト。電子1個のような小さなエネルギーの単位)です。
光1つ分のエネルギーと、その光の波長は反比例します。段差を eV で、波長を nm で表すと、2つをかけた値はいつも約1240 になります。 つまり、波長(nm)= 1240 ÷ 段差(eV)。段差が分かれば、割り算1回で光の波長が求まります。 リチウムの段差は 1.85 eV です。段差が大きいほど波長は短くなり、色は赤から紫の側へ移ります。
手で1回、計算してみます。1240 ÷ 2.10 = 590。589 nm の黄色を、ほぼそのまま言い当てられました。 ただし、ここで使った段差は、炎の光を測った結果から逆に求めた値です。そこで、段差をコンピュータで求めます。 ナトリウム原子の段差を計算すると 2.09 eV、割り算をすると 593 nm の黄色です。実測の 589 nm に近い値が、炎に入れる前に得られます。
分子でも同じで、まだ作っていない分子でも計算できます。例として、炭素の鎖に二重結合と単結合が交互に並んだ分子を考えます。二重結合が1個のエチレン(C₂H₄)から、鎖を1段ずつ伸ばしていきます。 鎖を長くすると、段差に見合う光の波長は長くなるでしょうか、短くなるでしょうか。
答えは、長くなる、です。鎖が長いほど電子の雲が鎖にそって遠くまで広がれるようになり、段差が小さくなるからです。 エチレンでは 150 nm で、目に見えない紫外線です。二重結合が7個の分子(395 nm)で、目に見える光の紫の端に入りました。
ただし、光のやりとりの向きは炎とは逆です。炎の原子は段差に見合う光を出しますが、色素の分子は白い光の中から段差に見合う光を受けとり、私たちは残りの光の色を見ます。 植物に多い色素の β-カロテンは、二重結合が11個つながった長い鎖をもち、青い光を受けとるので、赤橙色に見えます。
テラ作る前に、光る色を選ぶ
スマホやテレビの画面には、分子に電気を流して光らせる有機 EL を使ったものがあります。 2016年に報告された研究では、光らせる分子の候補を160万個考え、40万個を超える分子の光り方を量子化学計算で求めました。 選んだ分子だけを実際に作り、光らせて確かめています。
量子化学計算は、電子の数が増えると急に重くなるからです。炭素の鎖の分子で、電子の雲を求める時間を著者のパソコンで測ると、電子16個のエチレンは0.5秒ほど、電子170個の分子では4分近くかかりました。 電子の数が2倍になると、時間はおよそ5倍です。1分子4分なら、40万個を1個ずつ順に計算すると、休まず続けて3年ほどになります。
どこまで信じられるか
答えは、選んだ近似によっても変わります。ナトリウム原子の段差を、電子どうしのかかわりの見積もり方がちがう3つの近似で計算すると、波長は 557 nm から 628 nm まで分かれました。
計算した色は、黄緑から橙まで変わります。そのため分子の計算では、実測と比べて、その種類の分子によく合う近似を選びます。 まわりの水や、熱による分子の動きも省いています。計算がどれだけ当たるかは、第 6 章で答え合わせをします。
電荷のかたよりは、薬の分子とウイルスのタンパク質が引き合う強さにもかかわります。強く引き合う分子を作る前に選ぶ話は、第 3 章で見ます。
1億年前のホタルの光
ホタルの光は、ルシフェリンという分子が、ルシフェラーゼという酵素のはたらきで反応して出る光です。光の色は、ルシフェラーゼの形によって決まります。 2020年、中部大学の大場裕一さんたちは、今のホタルの遺伝子をもとに、約1億年前の祖先のホタルのルシフェラーゼを復元しました。 光らせて測ると、光がいちばん強い波長は 548 nm の緑で、今のゲンジボタルの酵素が出す光(562 nm)より少し短い波長でした。
なぜ色が変わるのかは、量子化学計算で調べられています。光る分子とまわりのアミノ酸をいっしょに計算した研究では、 計算した光の色が実測に近くなり、まわりのアミノ酸などの電荷が、光の色を決めるうえで大事なはたらきをしていることが示されました。
🖐 さわってみよう本の図 2-18
ホタルの光の色
つまみやボタンで光の波長を変えて、今のゲンジボタルの黄緑(562 nm)と、約1億年前の祖先の緑(548 nm)をくらべてみてください。
赤い光のボタンは、体の奥を光で見る研究のためのものです。明るさの変化はイメージで、計算そのものではありません。
山本研究室の光化学チームは、ここで見た量子化学計算で、光る分子の電子に何が起きているかを追っています。 光る分子とタンパク質をあわせて計算し、祖先と今の酵素を比べて、どのアミノ酸の入れかわりが色を変えたのかに迫ります。 体の奥のがん細胞を光で見つけるには赤い側の光が有利ですが、赤くすると暗くなりやすい。色と明るさを両立する光る分子の設計も、計算から探っています。