吸入薬と飲み薬
冬にインフルエンザにかかって病院に行くと、第 3 章で見たリレンザやタミフルが出されることがあります。 どちらの薬も、ウイルスがもつ酵素ノイラミニダーゼの活性部位(基質を受けとめて反応を進める場所)に結合して、そのはたらきを止めます。
ところが、体への入れ方がちがいます。リレンザは、粉末を専用の器具で口から吸いこむ吸入薬で、薬はのどや気管の表面に直接届きます。 タミフルは、カプセルを飲みこむ経口薬(飲み薬)で、薬は腸から吸収されて血液に入り、全身をめぐります。 作用する相手は同じなのに、なぜリレンザは飲み薬にならず、吸入薬になっているのでしょうか。
テラ
テオ飲み薬が、ウイルスのいる場所に届くまで
1
口から飲む
カプセルの薬が、胃を通って小腸へ。
2 関門
小腸の細胞膜を通る
膜を通り抜けられた分子だけが、血液に入れる。
3
血液で全身へ
血液にのって、体じゅうに運ばれる。
4
ウイルスに届く
のどや気管のウイルスの、はさみのくぼみにはまる。
水になじむ原子、油になじむ原子
砂糖はコーヒーにすぐ溶けますが、サラダ油は水といくらかき混ぜても、しばらくすると水の上に浮いてきます。 分子には、水になじみやすいものと、油になじみやすいものがあります。リレンザとタミフルの構造式で、O と N に色をつけました。
水になじみやすいのはどちらでしょうか。答えはリレンザです。O と N は合わせて、リレンザに11個、タミフルに6個あります。
O と N は電気陰性度が大きく、結合の電子を強く引きつけます。そのため O–H や N–H の結合では、O や N がわずかにマイナスに、H がわずかにプラスに帯電し、水分子と水素結合をつくります。 水素結合をつくれる場所が多い分子ほど、水分子に囲まれて安定になり(水和)、水に溶けこみます。 一方、C–H の結合にはほとんど電荷のかたよりがなく、水分子は C–H と水素結合をつくれません。C–H の多い部分は、水になじまず油になじみます。
🖐 さわってみよう本の図 4-3
水になじむ分子、水をはじく分子
「水を入れる」を押すと、まわりに水分子が近づきます。ブドウ糖の O–H には水が水素結合でくっつき、ヘキサンのまわりからは水が離れていきます。
水になじむ性質を親水性、水になじまず油になじむ性質を疎水性と呼びます。 疎水性は「水をはじく力をもつ」という意味ではありません。水分子どうしが水素結合で強く引き合うので、水素結合をつくれない部分が、水の外へ押し出されるのです。
リレンザの側鎖には、ブドウ糖と同じように O–H が3つ並んでいます。 この側鎖と、体の中の水で電荷をもつグアニジノ基・カルボキシ基のために、リレンザの親水性は高くなっています。では、親水性の高い分子は、なぜ経口薬に向かないのでしょうか。
細胞膜は油の膜
口から飲みこんだ薬は、小腸の壁をおおう細胞を通り抜けて血液に入り、全身をめぐってのどや気管に届きます。血液に入ることを吸収と呼びます。
最初の関門は、小腸の細胞を包む細胞膜です。膜を通り抜けることを、透過といいます。 細胞膜の中ほどは、油に似た部分がすき間なく並んだ層になっていて、親水性の高い分子は、この層に溶けこみにくいので透過しにくいのです。 細胞膜には、決まった物質だけを運び入れるタンパク質もありますが、ここでは膜そのものを透過する道だけを考えます。
🖐 さわってみよう本の図 4-5
細胞膜を通れるのは?
膜の中は油の層です。3つの分子を送りこんで、通り抜けるもの、はね返されるものを見くらべてください。
リレンザは、この膜をほとんど透過できません。飲みこんだ量のうち、吸収されて全身の血液に届く割合は、平均約2 %しかありません。 そのためリレンザは、飲み薬ではなく吸入薬として、のどや気管に直接届けるように作られています。
log P:水と油への分かれ方を1つの数で
親水性と疎水性の度合いを数で比べるために、水と、オクタノールというアルコールを同じ量ずつ容器に入れます。 2つは混ざらず、上下の層に分かれます。オクタノールは、細胞膜の油の層に見立てた液体です。 ここに調べたい分子を少し溶かし、よく振ってしばらく置くと、分子は油の層と水の層に分かれ、やがてそれぞれの層の量が変わらなくなります(平衡)。 分子の動きが止まったわけではなく、油から水へ移る分子と、水から油へ移る分子の数がつり合っているのです。
このときの「油の層の濃度 ÷ 水の層の濃度」を P と書きます。 P は分子によって大きくちがい、リレンザでは油と水の濃度の比がおよそ1対6,000、ビタミン A ではおよそ30万対1です。 そこで、P が「10を何回かけた数か」で数えます。1より小さい数は、10で何回割った数かを、マイナスで数えます。この回数が log P(P の常用対数)です。
回数は整数とはかぎりません。リレンザの1対6,000は、1対1,000(10で3回割る)と1対10,000(4回割る)のあいだなので、log P は −3.79 です。
🖐 さわってみよう本の図 4-6・4-7
水と油に分けて、log P を読む
分液漏斗に、油(オクタノール、上)と水(下)を同じ量入れてあります。物質のボタンを押して「よく振る」と、分子が2つの層に分かれます。油と水の数の比と、log P の値を見比べてください。
ボタンの値は、実際に測った値の目安です。落ちついたあとも、ときどき分子が境目をこえて入れかわります(動的平衡)。
身近な分子の log P を並べてみます(上のボタンの値は実際に測った値の目安で、下の図の計算の値とは少しちがいます)。その前に、予想の手がかりとして、ビタミン C とビタミン A の構造式を見ておきます。
ビタミン C とビタミン A、油になじむのはどちらでしょうか。
ビタミン C は水の側、ビタミン A は油の側にいます。「水溶性ビタミン」「脂溶性ビタミン」の区別と同じ向きです。
🖐 さわってみよう本の図 4-9
身近な分子の log P を計算する
水・エタノール・オクタノール、ビタミン C と A など、身近な分子の log P を、構造から計算します。
計算には、本と同じ原子寄与法(RDKit のクリッペン法)を使っています。はじめに計算の道具を読みこむので、10秒ほどかかります。
log P は、水とオクタノールを振って分ける実験で測れます。ただし、この実験には、調べたい分子そのものが手元に必要です。第 3 章でふるいにかけた分子は、ほとんどがまだ作られていません。作る前に、この実験をコンピュータの中でできないでしょうか。 実は、数直線の図の値も、コンピュータが構造式だけから見積もった値です。
コンピュータの中で水と油に分ける
コンピュータの中で分子を水と油に分ける方法は、大きく2つあります。実験のデータから決めた値を足す方法と、分子のあいだにはたらく力から計算する方法です。
コンピュータは、構造式の絵を見て分子を読みとるわけではないので、どの原子がどの原子とつながっているかを表にして渡します。 この表を結合表と呼びます。
分子量は、原子量を足せば求まります。log P にも、これに近い性質があります。分子の log P を、原子ごとの受けもち分(寄与)に分けて考えられるのです。 この寄与を足して log P を見積もる方法が、原子寄与法です。
原子量とちがうのは、同じ C でも、どの原子とつながっているかで寄与が変わることです。 そこで原子を、種類とつながる相手で細かく分けます。この区分を原子タイプと呼びます。
エタノールの3つの寄与を足すと −0.01 ですが、これは小数第2位までに丸めたためのずれで、丸める前に足すと 0.00 です。
同じ CH₂ でも、となりに O があると +0.04、C と C にはさまれると +0.39 です。この CH₂ を1つはさんだ1-プロパノールの log P は、その分だけ上がります。
原子タイプごとの寄与の値は、log P を実験で測ったおよそ1万個の分子に合うように決めてあります。 このように、実測に合うように決めて計算に使う数を、パラメータといいます。 この章の log P は、原子を68の原子タイプに分けるクリッペン法(1999年)で計算しました。
寄与を足すだけなので、コンピュータなら1分子0.0002秒ほど、100万個でも3分ほどで終わります。
このように、分子をデータとして扱い、構造と性質の関係から性質を予測する分野を、ケモインフォマティクスと呼びます。 原子寄与法は、その基本的な方法の1つです。第 5 章の機械学習も、この分野でよく使われています。
2つ目の方法は、本物の実験をそのままコンピュータの中で再現するものです。第 1 章で見た分子動力学で、水の箱とオクタノールの箱に調べたい分子を1つずつ入れて動かし、どちらの箱のほうが安定かを比べて log P を求めます。
実際の計算では、引き合う強さとまわりの分子の並び方を合わせた安定さの目安(自由エネルギー)を求めます。 この方法は寄与の表の代わりに力場の数を使うので、初めて見る形の分子にも使いやすい一方、何百万コマも動かすので、ずっと時間がかかります。
2つの方法は、目的に合わせて使い分けます。ただし、力から計算する方法のほうが、いつもよく当たるとは限りません。 実験の値を伏せたまま予測した腕比べでは、分子動力学などのつぶとばねの方法の誤差の大きさは、データから決める方法の2倍ほどでした。水とオクタノールの log P は実験で測った値がとてもたくさんあるので、その分よく当たった、と報告されています。
原子寄与法の誤差の大きさは、第 6 章で確かめます。
リレンザを飲み薬に書き換える
活性部位に結合する骨格は残したまま、親水性の部分を疎水性の部分に置きかえます。 そうすれば log P が上がり、小腸の細胞の膜を透過しやすくなるはずです。書き換える場所は、次の4か所です。
- 側鎖:O–H が3つ並んだ側鎖を、O を1つはさんだ炭素と水素の側鎖に
- グアニジノ基:N と H がたくさんついた部分を、小さなアミノ基(NH₂)に
- 環:環の中の O を C にし、環の二重結合を O のあった側へ移す
- カルボキシ基:COOH の H を、炭素の鎖(CH₂CH₃)に置きかえて、エステルに
🖐 さわってみよう本の図 4-15
書き換えた4か所を立体で見る
①〜④を押すと、リレンザからタミフルへ書き換えた場所が光ります。ドラッグすると回せます。
4か所それぞれを、書き換えるか書き換えないかで、組み合わせは 2×2×2×2=16通りです。コンピュータなら16個で0.003秒ほどです。 4か所のうち、log P をいちばん大きく上げるのはどこでしょうか。
答えは①の側鎖です。①だけで log P は3.45上がり、油と水の濃度の比はおよそ3,000倍、油の側に寄ります。 4か所すべてを書き換えると log P は +1.29 になり、分子はタミフル(オセルタミビル)と同じになります。 5の規則をすべて満たす分子(緑の輪)は6個で、どれも①を書き換えた分子でした。
テオ🖐 さわってみよう本の図 4-16
リレンザを書き換えて、log P を上げる
①〜④の書き換えを1つずつ押して、log P がどう変わるかを見てください。どの書き換えがいちばん効くか、予想してから押すのがおすすめです。
好きな分子の log P を計算できるlog P 計算アプリもあります。
ここでは、2つのことを簡単にしています。1つ目は、書き換えの順と理由です。矢印の道は考え方を示すためのもので、タミフルが実際にこの順で作られたわけではありません。 実際の側鎖も、log P を上げるためというより、活性部位に強く結合するように選ばれたものです。
2つ目は、④のエステルです。COOH は体の中の水でイオン(COO⁻)になり、細胞膜をほとんど透過できません。エステルにするとイオンにならないので透過できます。 ところが、活性部位の3つのアルギニン(プラス)と塩橋で結びつくのは、マイナスの COO⁻ です。 そこでタミフルは、飲んで膜を透過した後に、体の中でエステルが外れて COOH の形に戻るように作られています。このように、体の中で効く形に変わるように作った薬を、プロドラッグと呼びます。
なお、log P はイオンになる前の形どうしで比べる数なので、イオンにならないようにした効果は log P には表れません。④の書き換えで上がるのは0.48だけです。
また、log P は大きいほどよいわけではありません。大きすぎると、こんどは胃や腸の中の水に溶けにくくなります。 1997年にリピンスキーらがまとめた「5の規則」は、log P が5まで、分子量が500まで、N–H と O–H の数が5まで、N と O の数が10まで、という4つの目安です。 2つ以上を超える分子は、腸から吸収されにくいことが多いのです。
データから規則を決める考え方は、次の章でくわしく取り上げます。 分子動力学で、分子が水と油のそれぞれにどれだけなじむかを比べる計算は、山本研究室の生物物理チームが、薬とタンパク質の結合の強さを見積もるのに使っている計算と同じ仲間です。 ウイルスの変異が薬の結合をどれだけ弱めるのかを、この計算で確かめています。 創薬ミッションの続きは、次の章です。ここで使った log P の計算が、どうやって作られたのかを見ます。