サラダのドレッシングをよく振ると、油が細かい滴になって、全体がにごったように混ざります。 ところが、しばらく置いておくと、油は上に、酢(ほとんどが水)は下に集まって、また2つの層に分かれてしまいます。 油の分子が、水の分子をはじき出しているのでしょうか。分子を1個ずつコンピュータの中で動かして、そのわけを「見る」ことにします。
本物の実験:水と油、氷と水と水蒸気
透明なびんに水とサラダ油を入れてよく振ると、全体が白くにごります。びんを置いておくと、油の細かい滴はしだいに集まって大きくなり、やがて上の層に戻ります。
この実験で分かるのは、「水と油は混ざらない」という結果です。けれども、なぜ混ざらないのかは、びんを見ていても分かりません。 分子は1000万分の3 mmほどの大きさしかなく、秒速数百 mで動いているからです。
もう1つ、身近な実験があります。氷を温めると、0 ℃で溶けて水になり、100 ℃で沸騰して水蒸気になります。 氷も水も水蒸気も、同じ水分子でできています。温度を変えるだけで、固体・液体・気体という3つの状態(三態)が入れかわるのです。 では、分子の何がちがうのでしょうか。これも、目では見えません。
分子をつぶとばねで表す
分子をコンピュータの中で動かすために、まず分子のモデルを作ります。分かりたいことに必要なものを残し、それ以外の細部は省きます。 本物の水分子は、1個のO原子と2個のH原子が、共有結合でつながったものです。O–Hの結合の長さは1000万分の1 mmほどで、2本の結合は104.5°の角度で開いています。
分子の動きを追うときに知りたいのは、原子がどこにあり、どちらへ動くかです。そこで、原子を、決まった質量をもつつぶとみなします。 共有結合は、のびたり縮んだりするばねとみなします。結合の角度も、ばねで保ちます。これをつぶとばねのモデルと呼びます。
このモデルでは、電子の動きは省いています。また、本物の分子では、結合が切れたりできたりして、別の分子に変わることがあります(化学反応)。 つぶとばねのモデルでは、ふつう、結合が切れることも新しくできることもありません。
テオつぶを動かすには、つぶにはたらく力を決めなければなりません。力には2種類あります。 1つは結合のばねの力です。もう1つは結合していないつぶどうしの力で、近づきすぎると強く押し返し合い、少し離れると弱く引き合います。 この力は別々の分子の原子どうしにもはたらき、分子どうしを引き合わせます。これが分子間力です。
さらに、つぶには、わずかなプラスやマイナスの電気も割りふっておきます。 ばねの強さ、つぶの大きさ、引き合いの強さ、電気の量。こうした力の決め方の一式を、力場(force field)と呼びます。 力場の数は、実験の結果や、電子まで考えた計算に合うように決めてあります。
これで、コンピュータに渡すものがそろいました。はじめのつぶの位置と速さ、力場、温度などの条件です。 返ってくるのは、1コマずつ記録したつぶの位置で、並べるとコマ送りの映像になります。
1コマずつ動かす
つぶを動かす規則は、運動の法則 F = ma です。力 F が分かれば、質量 m で割って加速度 a が求まります。 加速度からはほんの一瞬あとの速さが、速さからはその一瞬のあとの位置が求まります。 つぶが動けば距離が変わり、力も変わるので、新しい位置で力を計算し直し、また一瞬だけ進めます。
この1コマの計算を、手で1回やってみます。壁にばねでつながれたつぶを1つ考え、ばねが自然の長さになる位置を0とします。 単位は省き、向きは符号で表して、位置が大きくなる向きをプラスとします。はじめ、つぶは位置4に止まっています。
🖐 さわってみよう本の図 1-5・1-6・1-7
ばねのつぶを、1コマずつ動かす
「1コマ進める」を押すと、①〜④の順に計算して、つぶが動きます。何回か押したら、続きはコンピュータにくり返させてみてください。
① 力
?
−ばねの強さ×位置
② 加速度
?
力÷質量
③ 速さ
?
速さ+加速度×1コマ
④ 位置
?
位置+速さ×1コマ
コマ 0 位置 4
予想してみよう:1コマを 2.1 まで長くすると、つぶはどうなる?
灰色の破線は、ばねの振動の正しい動きです。単位は省いています。
力から加速度、速さ、位置と順に求めると、つぶは位置4から3へ進みます。かけ算と足し算だけで、1コマ分の動きが求まりました。
「コンピュータにくり返させる」を押すと、つぶは、およそ4と−4のあいだを行ったり来たりします。 手順のどこにも「振動しなさい」とは書いていません。それでも、「力 → 加速度 → 速さ → 位置」をくり返すだけで、ばねの振動があらわれました。 このように、原子にはたらく力から、運動の法則にしたがって原子の動きを1コマずつ計算していく方法を、分子動力学(molecular dynamics)と呼びます。
1コマは、どれだけ短いか
1コマの計算はコマの初めの力をそのまま使うので、力が大きく変わる前に次のコマへ進まなければなりません。上の図の「1コマの長さ」を変えて、試してみてください。 1往復を3コマしか刻まないと、計算が壊れます。いちばん速い動きの1往復を10コマほどに刻むのが目安です。
分子の中でとりわけ速いのは、O–Hの伸び縮みで、水分子では1000兆分の9秒ほどで1往復します。 これを10コマほどに刻むと、1コマは1000兆分の1秒(10−15秒)ほどになります。1コマで進める時間の幅を、時間刻み(time step)といいます。
10億分の1秒を進めるだけで、100万コマが必要です。水に囲まれた中くらいの大きさのタンパク質なら、原子はおよそ5万個。 2018年の報告では、GPU(画像を描くための計算部品)1枚で10億コマ(100万分の1秒)まで進めるのに、数日かかりました。
温度は熱運動の激しさ
分子は、止まっているように見える氷の中でも、いつも動いています。この絶え間ない動きを、熱運動と呼びます。 温度は、この熱運動の激しさを表す数です。温度が高いほど、分子は平均して速く動きます。 コンピュータの中では、温度はつぶの速さで決まります。つぶ1個あたりの運動エネルギーの平均を、そのまま温度の値とします。 コンピュータは、何コマかごとに、全部のつぶの速さに同じ数を少しずつかけて、目標の温度に近づけます。
ここで、分子1個を1つのつぶにした、2次元の簡単な計算を動かしてみます。ばねも電気もなく、つぶどうしの力は、前に見た「つぶどうしの力」の図の右の規則だけです。 下の動く図では、壁のある平たい箱に90個のつぶを入れ、下向きに弱い力(重力のかわり)を加えます。(本の図の計算には、壁もこの力もありません。)温度は、この計算の中だけの目盛りで、℃ではありません。
温度をうんと低くすると、つぶはどう並ぶでしょうか。答えは、六角形の並びです。内側のつぶは、それぞれ6個のつぶに囲まれて、ほぼすき間なく並びます(固体の結晶)。 温度を上げると、つぶは寄り集まったまま位置を入れかえ(液体)、さらに上げると、ばらばらに飛び回ります(気体)。
🖐 さわってみよう本の図 1-10
温度を変えて、氷・水・水蒸気
箱の中の約90個のつぶが、力の規則だけで動いています。温度を上げ下げして、つぶが集まったり飛び回ったりするようすを見てください。色はつぶの速さです(青=遅い、ローズ=速い)。
温度スライダーを動かすと、気体→液体→結晶と姿が変わります。
温度をいちばん低くしてしばらく待つと、つぶが規則正しく並びはじめます。
計算のどこにも、「低い温度では結晶になりなさい」とは書いていません。つぶどうしの引き合いと、温度で決まる動きの激しさのどちらが勝つかで、3つの状態があらわれたのです。 引き合いが勝てばつぶは集まり、動きが勝てばばらばらになります。 同じ温度でも、つぶの速さはそろっていません。温度は、1個のつぶの速さではなく、たくさんのつぶの動きの激しさを平均したものです。
ただし、本物の氷は、水分子が水素結合(次の節で説明します)で4個とつながる、すき間の多い並びで、水に浮きます。どの向きにも引き合うつぶとは、ここがちがいます。
水と油はなぜ分かれるか
水と油の話に戻ります。水分子のO原子は、わずかにマイナスの電気を帯び、H原子は、わずかにプラスの電気を帯びています(下の図のδ−とδ+)。 OやNについたHが、となりの分子のOやNと引き合う結びつきを、水素結合と呼びます。 1個の水分子は、まわりの何個もの水分子と水素結合をつくれるので、水の中では水素結合が網の目のようにつながっています。
一方、油の分子は、ほとんどCとHだけでできています。CもHも、電気をほとんど帯びていません。 そのため油の分子は、水分子と水素結合をつくれず、水分子とは弱い分子間力で引き合うだけです。
この引き合いのちがいだけで、水と油は分かれるのでしょうか。水6割と油4割のつぶを、合わせて140個にします。つぶは箱の壁ではね返りますが、重力のかわりの力は加えません。 引き合いの強さを、水と水がいちばん強く(水素結合のかわり)、油と油はその10分の9、水と油は10分の3にします。油と油が強めなのは、つぶ1個が大きな油の分子1個を表すからです。 つぶを箱いっぱいにでたらめに並べ、よく振った直後の状態から動かすと、どうなるでしょうか。 下の動く図の「まざり具合」は、となりどうしのつぶが別の種類である割合を、でたらめに混ぜたときを100%として表した数です。
🖐 さわってみよう本の図 1-14
水と油が分かれる
青が水、琥珀色が油のつぶです(本の図とは色がちがいます)。よく振った直後の並びから始めても、引き合いの強さのちがいだけで、しばらくすると2つに分かれていきます。
混ぜた状態から始まります。しばらく待つと、青(水)と琥珀色(油)が分かれていきます。
水どうしは強く引き合い(水素結合)、油はその仲間に入れないので分かれる。水油
分かれたら「よく振る」でもう一度混ぜてみてください。「温める」と、熱運動が引き合いに勝って、ふたたび混ざりはじめます。
ここでも、計算のどこにも「水と油は分かれなさい」とは書いていません。
なぜ分かれるのか
分かれた理由を、3つのつぶで手でたどってみます。一直線に水・水・油のつぶを同じ間隔で並べ、真ん中の水のつぶを動かします。
距離は同じなのに、真ん中のつぶが水のつぶから受ける引き合う力は、油のつぶから受ける力の3倍あまりです。そのため、真ん中の水のつぶは水のほうへ引かれます。 水のつぶどうしが寄り集まった並びのほうが安定なので、熱運動で動き回るうちに、水のつぶはかたまっていきます。そうなると、はみ出した油のつぶは、油どうしで集まるしかありません。 油が水をはじき出すのではなく、水どうしが強く、水と油が弱くしか引き合わないために、油が外へ押し出されるのです。
テラ本当にそうなのかを、水と油の引き合いの強さだけを変えた計算で確かめました。本物のびんでは、できない実験です。
引き合いをなくしても分かれ、水どうしと同じ強さにすると、いつまでたっても分かれませんでした。 「油は、水をはじく力をもっている」と考えるのは誤りです。分かれるかどうかは、水と油の引き合いがあるかないかではなく、水どうしの引き合いが水と油の引き合いよりずっと強いかどうかで決まります。
どこまで信じられるか
水と油の計算では、引き合いの強さの数を1つ変えただけで、分かれるという結果が、分かれないという結果に変わりました。 分子動力学の結果は、どんな力場を使うかしだいです。研究で使う力場も、本物の力を簡単な式で置きかえたものなので、いつも正しい答えを出すとは限りません。
また、分かれるという結果が合っていても、その理由まで本物どおりとは限りません。つぶの計算では、引き合いの強さのちがいで分かれました。 本物の水では、油の分子を囲む水分子が限られた向きにしか並べず、並び方の数(エントロピー)が減ることも、大きくかかわります。
さらに、ばねが切れないので、結合が切れたりできたりする化学反応は、このままでは扱えません。1コマがとても短いので、計算できる時間の長さにも限りがあります。
水のOとHの電気がなぜかたよるのかは、次の章で、電子をコンピュータで「見る」ことで確かめます。
研究の現場では、水に囲まれたタンパク質を分子動力学で動かします。酵素が基質を受けとめる場所(活性部位)も、熱運動で少しずつ形を変えているからです。 エイズの原因になるウイルスがもつ酵素の1つでは、10億分の2秒の分子動力学から取り出したコマにドッキング(第 3 章)すると、活性部位のとなりにときどき開く溝が見つかりました。 その後、酵素のはたらきを止める分子がこの溝に結合することが実験で確かめられ、この酵素のはたらきを止める初めての薬の開発につながったと紹介されています。 山本研究室の生物物理チームも、分子動力学でタンパク質を動かし、ウイルスが変異して薬が効きにくくなるしくみや、神経の病気にかかわるタンパク質の変化を調べています。 活性部位に合う分子を探す計算は、第 3 章の創薬ミッションで体験できます。