本『コンピュータのなかの実験室』の Web 版です。高校生・大学1年生に向けて、PDF 版の文を短くし、動く図といっしょに読めるようにしました。 高校の化学・物理・数学・情報で習う言葉を足場に、全部で8章あります。 この序章で「計算化学とは何か」をつかんでから、気になる章へ進んでください。
天気予報も、コンピュータの中の実験
明日の天気は、どうやって予想しているのでしょうか。予報する人が空を見上げて、雲の形から勘で決めているわけではありません。 気象庁のコンピュータが、地球をおおう大気がこれからどう動くかを、物理の法則にしたがって計算しています。 コンピュータの中で、明日の空を先に作ってみているのです。
ただし、空気は切れ目なくつながっていて、そのままではコンピュータに渡せません。そこで、大気を縦・横・高さに細かく区切り、 マスの集まりとして表します。マス1つには、気温・風・水蒸気の量・気圧などの数を1組ずつ持たせます。 本物の空を、コンピュータで計算できる形に置きかえたもの。これをモデルと呼びます。
マスの数を、物理の法則から5分先へ進める。これを地球全体の約4億個のマスで、11日先まで約3,000回くり返します。 マスの計算は、合わせて1兆回を超えます。手ではとてもできないくり返しを引き受けるのが、コンピュータの仕事です。
コンピュータがなかった1920年ごろ、イギリスのリチャードソンは、大気をマスに区切った計算を手でやってみました。 6時間先の予報を出すのに1か月以上かかったうえ、計算の結果は大きく外れて、予報としては使えませんでした。
3つの問いで読む
コンピュータの中の実験で、コンピュータが何をしているのか。それは、次の3つの問いを立てるとよく分かります。 このあとの第 1〜5 章は、最後にこの3つの問いでまとめます。
問い 1
何をモデルにしたか
天気予報なら、格子のマス。マスより小さな積乱雲は、1つ1つを表せません。何かを省いています。
問い 2
何をくり返したか
となりのマスの数と規則から、少し先の数を求める。これを何千回もくり返します。
問い 3
どこまで信じられるか
予報は、あとで観測と答え合わせをします。その積み重ねで、モデルを直してきました。
分子でも、同じことができる
分子をつくる原子や電子も、物理の法則にしたがって動きます。それなら、天気予報と同じことが分子でもできるはずです。 分子のモデルを作り、その規則にしたがってコンピュータにくり返し計算させれば、分子がどう動き、どんな性質をもつかを、実験の前に予測できます。
よくある誤解に、「シミュレーションは、答えを前もってコンピュータに教えてあるから、その答えが出てくる」というものがあります。 天気予報のコンピュータは、「台風はこう進め」とは教えられていません。渡されるのは、今の大気の状態と、空気の動きの規則だけです。 分子も同じで、第 1 章では、分子どうしが引き合う規則だけから、水と油が分かれていくようすを見ます。
分子の世界は、小さくて速い
なぜ分子を、わざわざコンピュータの中で調べるのでしょうか。理由の1つは、分子がとても小さく、しかもとても速く動いていることです。 1 mmの水滴を地球の大きさまで拡大しても、その中の水分子は4 mほど、乗用車くらいにしかなりません。
速さも桁ちがいです。室温の水分子は、平均で秒速590 mほどで動いています。音の速さ(秒速350 mほど)よりも速いのです。 分子の世界の出来事は、1000万分の1 mmという大きさと、1兆分の1秒という短い時間の中で起こっています。
これほど小さくて速いと、分子が動くようすを実験で1コマずつ追うのは、とてもむずかしくなります。 コンピュータの中なら、分子のモデルを1コマずつ止めて、原子の位置や電子の広がりを調べられます。実験では見えにくいところも、計算なら見ることができるのです。
ノーベル化学賞でたどる計算化学
分子をコンピュータで計算する研究は、1960年代に、分子の中の電子を表す方程式をコンピュータで解き始めたころから、大きく進みました。 その歩みは、ノーベル化学賞にも表れています。
1998年
コーン、ポープル
分子の中の電子を計算する方法
2013年
カープラス、レヴィット、ウォーシェル
大きな分子の化学反応を計算するモデル
2024年
ベイカー/ハサビス、ジャンパー
タンパク質の設計と、人工知能で構造を予測
1998年は、分子の中の電子を計算する方法を開発したコーンとポープル。 2013年は、タンパク質のような大きな分子を計算するモデルを作ったカープラス、レヴィット、ウォーシェルです。反応が起こる大事な部分は電子まで計算し、残りは原子をつぶとして動かす、という組み合わせでした。 2024年は、コンピュータでタンパク質を設計したベイカーと、人工知能でタンパク質の構造を予測したハサビスとジャンパーに贈られました。
計算化学の4つのはたらき
計算化学が化学の研究でしていることは、大きく4つのはたらきに分けられます。 小さくて速くて実験では見えにくい分子の動きや電子を「見る」。何億もの候補の分子から、薬になりそうな分子を「探す」。 分子を作る前に、その性質を「予測する」。たくさんのデータから、規則を「学ぶ」。
このあとの第 1〜5 章で、4つのはたらきを1つずつ取り上げます。どの章も、まず本物の実験や観察で調べ、 次に同じことをコンピュータの中で試す、という順に進みます。
第 1 章 見る・分子動力学
分子の動きを「見る」→
- 本物の実験:
- 水と油を振って、分かれるのを見る
- コンピュータの中:
- 分子を1個ずつ動かす
第 2 章 見る・量子化学
電子を「見る」→
- 本物の実験:
- 炎色反応やホタルの光の色を見る
- コンピュータの中:
- 電子を計算して、光の色を求める
第 3 章 探す・ドッキング
薬の候補を「探す」→
- 本物の実験:
- 酵素のはたらきが、薬の候補で止まるかを調べる
- コンピュータの中:
- 候補の分子を酵素に置いて、結合の強さを点数にする
第 4 章 予測する・原子寄与法
体に届くかを「予測する」→
- 本物の実験:
- 水とオクタノール(油)を振って分ける
- コンピュータの中:
- 構造式から、水と油への分かれ方を計算する
第 5 章 学ぶ・機械学習
データから「学ぶ」→
- 本物の実験:
- 測ったデータを表に集める
- コンピュータの中:
- データから規則を学ぶ
そのあとの2章では、ここまでの計算を振り返り、これからを見わたします。
第 6 章 実験との答え合わせ
計算を信じてよいか→
コンピュータの答えは、いつも正しいわけではありません。どこまで信じてよいかを、実験との答え合わせで確かめます。
終章 材料の設計
計算化学が切り拓く未来→
二酸化炭素をつかまえる材料を、何十万個もの候補からコンピュータで選ぶ。計算化学は、薬だけでなく材料の研究も変えています。
