吸入薬と飲み薬
インフルエンザの薬に、リレンザとタミフルがあります。どちらも、ウイルスがもつ酵素ノイラミニダーゼの活性部位に結合して、そのはたらきを止めます。 ところが、体への入れ方がちがいます。リレンザは、粉末を口から吸いこむ吸入薬で、薬はのどや気管の表面に直接届きます。 タミフルは、カプセルを飲みこむ経口薬(飲み薬)です。作用する相手は同じなのに、なぜリレンザは飲み薬にならないのでしょうか。
飲みこんだ薬は、胃を通って小腸へ送られ、小腸の壁をおおう細胞(上皮細胞)を通り抜けて血液に入り、全身をめぐってから、のどや気管に届きます。
最初の関門は、小腸の上皮細胞です。細胞は細胞膜で包まれていて、膜の中ほどは、油に似た部分がすき間なく並んだ層になっています。 油になじむ分子は、この層に溶けこんで膜を通り抜けます。水になじむ分子は、油の層にはね返されて、通り抜けにくくなります。
🖐 さわってみよう本の図 4-5
細胞膜を通れるのは?
膜の中は油の層です。3つの分子を送りこんで、通り抜けるもの、はね返されるものを見くらべてください。
リレンザは、この膜をほとんど通り抜けられません。飲みこんだ量のうち、全身の血液に届く割合(生物学的利用能)は、平均で約2 %です。 そのためリレンザは、飲み薬ではなく吸入薬として作られています。
水になじむ原子、油になじむ原子
砂糖はコーヒーにすぐ溶けますが、サラダ油は水といくらかき混ぜても、しばらくすると上に浮いてきます。 分子には、水になじみやすいもの(親水性)と、油になじみやすいもの(疎水性)があります。 リレンザとタミフルの構造式で、O と N の原子に色をつけてみました。
水になじみやすいのはどちらでしょうか。答えはリレンザです。O と N を数えると、リレンザには合わせて11個、タミフルには6個あります。
O と N は電気陰性度が大きく、結合の電子を強く引きつけます。そのため O–H や N–H の結合では、O や N がわずかにマイナスに、H がわずかにプラスに帯電します。 この O や N、H が、水分子と水素結合をつくります。水素結合をつくれる場所が多い分子ほど、水分子にしっかり囲まれて安定になり、水に溶けこみます。 一方、C–H の結合にはほとんど電荷のかたよりがなく、水分子は C–H と水素結合をつくれません。C–H の多い部分は、水になじまず油になじみます。
🖐 さわってみよう本の図 4-3
水と手をつなぐ分子、水をはじく分子
「水を入れる」を押すと、まわりに水分子が近づきます。ブドウ糖の O–H には水が水素結合でくっつき、ヘキサンのまわりからは水が離れていきます。
リレンザの環から伸びた枝(側鎖)には、ブドウ糖と同じように O–H が3つ並んでいます。 この側鎖と、体の中の水で電荷をもつグアニジノ基・カルボキシ基のために、リレンザは親水性が高くなっています。
log P:水と油への分かれ方を1つの数で
親水性と疎水性の度合いを、数で比べてみます。本物の実験では、水と、オクタノールというアルコールを同じ量ずつ容器に入れます。 2つは混ざらず、上下の層に分かれます。オクタノールは、細胞膜の油の層に見立てた液体です。 ここに調べたい分子を少し溶かし、よく振ってしばらく置くと、分子は油の層と水の層に分かれ、やがてそれぞれの量が変わらなくなります(平衡)。 分子の行き来が止まったわけではなく、油から水へ移る数と、水から油へ移る数がつり合っているのです。
このときの「油の層の濃度 ÷ 水の層の濃度」を P(油水分配係数)と呼びます。 P は分子によって大きくちがい、リレンザでは油と水の比がおよそ1対6,000、ビタミン A ではおよそ30万対1です。 そこで、P が「10を何回かけた数か」で数えます。1より小さい数は、10で何回割った数かを、マイナスで数えます。この回数が log P(P の常用対数)です。
log P が0なら油と水に半分ずつ、プラスなら油に、マイナスなら水に多く分かれます。 回数は整数とはかぎりません。リレンザの1対6,000は、1対1,000(10で3回割る)と1対10,000(4回割る)のあいだなので、log P は −3.79 です。
🖐 さわってみよう本の図 4-6・4-7
水と油に分けて、log P を読む
分液漏斗に、油(オクタノール、上)と水(下)を同じ量入れてあります。物質のボタンを押して「よく振る」と、分子が2つの層に分かれます。油と水の数の比と、log P の値を見比べてください。
ボタンの値は、実際に測った値の目安です。落ちついたあとも、ときどき分子が境目をこえて入れかわります(動的平衡)。
身近な分子の log P を並べてみます(上のボタンの値は実際に測った値の目安で、下の図の計算の値とは少しちがいます)。ビタミン C とビタミン A では、どちらが油になじむでしょうか。 ビタミン C は小さな分子に O が6個、ビタミン A は大きな分子に O が1個だけです。
ビタミン C は −1.41 で水の側、ビタミン A は +5.51 で油の側にいます。「水溶性ビタミン」「脂溶性ビタミン」の区別と同じ向きです。 リレンザの −3.79 は、ブドウ糖(−3.22)よりもさらに水の側にあります。
🖐 さわってみよう本の図 4-9
身近な分子の log P を計算する
水・エタノール・オクタノール、ビタミン C と A など、身近な分子の log P を、構造から計算します。
計算には、本と同じ原子寄与法(RDKit のクリッペン法)を使っています。はじめに計算の道具を読みこむので、10秒ほどかかります。
log P は、水とオクタノールを振って分ける実験で測れます。ただし、この実験には、調べたい分子そのものが手元に必要です。第 3 章でコンピュータの中でふるいにかけた分子は、ほとんどがまだ作られていません。 実は、上の図の値も実験で測ったものではなく、コンピュータが構造式だけから見積もった値です。
コンピュータの中で水と油に分ける
コンピュータは、構造式の絵を見て分子を読みとるわけではありません。どの原子がどの原子とつながっているかを表にして渡します。 この表を結合表と呼びます。
分子量は、原子量を足せば求まります。log P にも、これに近い性質があります。分子の log P を、原子ごとの受けもち分(寄与)に分けて考えられるのです。 疎水性の側へ寄せる原子はプラス、親水性の側へ寄せる原子はマイナスの寄与をもちます。この寄与を足して log P を見積もる方法が、原子寄与法です。
原子量とちがうのは、同じ C でも、どの原子とつながっているかで寄与が変わることです。 そこで原子を、種類とつながる相手で細かく分けます。この区分を原子タイプと呼びます。手で1回、エタノールで足してみます。
H はいつも1つの原子にだけつながっているので、C や O とそこについた H をひとまとめにしました。 エタノールは CH₃ が +0.51、CH₂ が +0.04、OH が −0.56 で、足すと 0.00 です(図の数は小数第2位に丸めてあるので、そのまま足すと −0.01 になります)。 エタノールは、水と油にほぼ同じだけなじむと見積もれます。
同じ CH₂ でも、となりに O があると +0.04、C と C にはさまれると +0.39 です。 1-プロパノールは、エタノールにこの CH₂ を1つはさんだ分子なので、log P はその分だけ上がって +0.39 になります。
原子タイプごとの寄与の値は、log P を実験で測ったおよそ1万個の分子に合うように決めてあります。 このように、実測に合うように決めて計算に使う数を、パラメータといいます。 この章の log P は、1999年にワイルドマンとクリッペンが発表した、原子を68の原子タイプに分けるクリッペン法で計算しました。
寄与を足すだけなので、コンピュータなら1分子0.0002秒ほど、100万個でも3分ほどで終わります。 何億個もの分子をふるいにかけるときにも、log P をまとめて出せます。
もう1つの方法は、本物の実験をそのままコンピュータの中で再現するものです。第 1 章の分子動力学で、水の箱とオクタノールの箱を作り、 それぞれに調べたい分子を1つ入れて動かします。そして、どちらの溶媒に囲まれたほうが安定か(自由エネルギー)を比べて、log P を求めます。 初めて見る形の分子にも使いやすい一方、何百万コマも動かすので、ずっと時間がかかります。
物理にもとづく方法のほうが、いつもよく当たるとは限りません。2020年に報告された予測の腕比べ(11個の分子)では、分子動力学などのつぶとばねの方法の誤差の大きさは、原子寄与法などの経験的な方法の2倍ほどでした。 水とオクタノールの log P は実験の値がとてもたくさんあるので、経験的な方法がその分よく当たった、と報告されています。2つの方法は、目的に合わせて使い分けます。
リレンザを飲み薬に書き換える
リレンザを飲み薬にする方針が見えてきました。活性部位に結合する骨格は残したまま、親水性の部分を疎水性の部分に置きかえます。 書き換える場所は、次の4か所です。
- 側鎖:O–H が3つ並んだ側鎖を、O を1つはさんだ炭素と水素の側鎖に
- グアニジノ基:N と H がたくさんついた部分を、小さなアミノ基(NH₂)に
- 環:環の中の O を C にし、環の二重結合を O のあった側へ移す
- カルボキシ基:COOH の H を炭素の鎖(CH₂CH₃)に置きかえる(エステルという形になる)
🖐 さわってみよう本の図 4-15
書き換えた4か所を立体で見る
①〜④を押すと、リレンザからタミフルへ書き換えた場所が光ります。ドラッグすると回せます。
4か所それぞれを、書き換えるか書き換えないかで、組み合わせは 2×2×2×2=16通りです。手で足すのは大変ですが、コンピュータなら16個で0.003秒ほどです。 4か所のうち、log P をいちばん大きく上げるのはどこでしょうか。
答えは①の側鎖です。①を書き換えた分子(青)と書き換えていない分子(灰)は、はっきり2つに分かれています。 ①だけで log P は3.45上がり、油と水の比はおよそ3,000倍、油の側に寄ります。 4か所すべてを書き換えると log P は +1.29 になり、分子はタミフル(オセルタミビル)と同じになります。
🖐 さわってみよう本の図 4-16
リレンザを書き換えて、log P を上げる
①〜④の書き換えを1つずつ押して、log P がどう変わるかを見てください。どの書き換えがいちばん効くか、予想してから押すのがおすすめです。
途中の段階は考え方を見せるためのもので、タミフルが実際にこの順で作られたわけではありません。 好きな分子の log P を計算できるlog P 計算アプリもあります。
④のエステルで log P が上がるのは0.48だけです。log P はイオンになる前の形どうしで比べる数なので、イオンにならないようにした効果は log P には表れません。エステルにする意味は、そこにあります。COOH は体の中の水でイオン(COO⁻)になり、細胞膜をほとんど通り抜けられません。 エステルにすると、イオンにならずに膜を通り抜けられます。ところが、COO⁻ こそが活性部位に結合する部分です。 そこでタミフルは、飲んだあとに主に肝臓の酵素でエステルが外れ、効く形に戻るように作られています(プロドラッグ)。効く形での生物学的利用能は75 %です。
また、log P は大きいほどよいわけではありません。大きすぎると、こんどは胃や腸の中の水に溶けにくくなります。 1997年にリピンスキーらがまとめた「5の規則」は、log P が5まで、分子量が500まで、N–H と O–H の数が5まで、N と O の数が10まで、という4つの目安です。 16通りのうち、4つの目安をすべて満たすのは6個で、どれも①を書き換えた分子でした。
原子寄与法のパラメータは、たくさんの実験データに合うように決めた数でした。データから規則を決める考え方は、次の章でくわしく取り上げます。 分子動力学で、分子が水と油のそれぞれにどれだけなじむかを比べる計算は、山本研究室の生物物理チームが、薬とタンパク質の結合の強さを見積もるのに使っている計算と同じ仲間です。 ウイルスの変異が薬の結合をどれだけ弱めるのかを、この計算で確かめています。 リレンザをくぼみに合わせ、体に届く形に直すまでの流れは、創薬ミッションで通して体験できます。
