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コンピュータのなかの実験室 Web 版 第 2 章

電子を「見る」

分子の色は、電子のエネルギーの段差で決まります。電子の雲を計算すれば、作る前に色が分かります。

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第 1 章では、水分子の O はわずかにマイナス、H はわずかにプラスの電気を帯びていることを、決まったこととして使いました。 O と H のあいだで、なぜ電気がかたよるのでしょうか。そのわけは、つぶとばねのモデルで省いた電子にあります。 電子は、光の色も決めています。花火の赤や黄色、ホタルの黄緑色の光は、どれもその例です。

色は電子が決める

ナトリウムをふくむ水溶液を白金線につけて、ガスバーナーの炎に入れると、炎は黄色になります。リチウムなら赤、銅なら青緑です。 これが炎色反応で、花火の色もこの反応で出しています。

炎の光をプリズムに通して色ごとに分けると、ナトリウムでは 589 nm の黄色の位置に、細い線が現れます(1 nm は100万分の1 mm)。リチウムでは 671 nm の赤の位置です。 決まった波長の光だけが出ているのです。

これは、原子の中の電子がとれるエネルギーが、とびとびの値に限られているからです。電子は、決まった高さの段にしかいられません。 この段をエネルギー準位と呼びます。電子配置の K 殻・L 殻・M 殻も、この段を大まかに分けたものです。

ナトリウム原子の外側の電子が、炎の熱でいちばん下の段から1つ上の段へ上がり、下の段へ戻るときに段差2.10 eVに等しい589 nmの黄色の光を出す図。
ナトリウム原子で、いちばん外側にある電子のエネルギー準位(横線)。丸が電子で、白抜きの丸は電子が移る前の位置です。

炎の熱でエネルギーを受けとった電子は、上の段へ上がります。上の段は不安定なので、電子はすぐ下の段へ戻り、 そのとき上下の段のエネルギーの差(段差)にちょうど等しいエネルギーの光が出ます。 ナトリウムの段差は 2.10 eV(電子ボルト。電子1個のような小さなエネルギーの単位)です。

光1つ分のエネルギーと、その光の波長は反比例します。段差を eV で、波長を nm で表すと、2つをかけた値はいつも約1240 になります。 つまり、波長(nm)= 1240 ÷ 段差(eV)。段差が分かれば、割り算1回で光の色が求まります。

では、リチウムの赤い光(671 nm)とナトリウムの黄色い光(589 nm)で、段差が大きいのはどちらでしょうか。 答えはナトリウムです。リチウムは 1.85 eV。段差が大きいほど波長は短くなり、色は赤から紫の側へ移ります。

段差が大きいほど光の波長が短くなる反比例の曲線。リチウム1.85 eVで671 nm、ナトリウム2.10 eVで589 nm。
段差と光の波長の関係。曲線の色は、その波長の光の色です。灰色の部分は、目に見えない光です。丸は、ナトリウムとリチウムの実測の値です。

手で1回、計算してみます。1240 ÷ 2.10 = 590。589 nm の黄色を、ほぼそのまま言い当てられました。 ただし、ここで使った段差は、炎の光を測った結果から逆に求めた値です。これでは、光を測るまで色は分かりません。 段差を決めているのは電子なので、電子のふるまいを計算すれば、光を測る前に段差も求められるはずです。

電子は雲のように広がる

原子核のまわりを、電子が惑星のように決まった道で回っている絵を見たことがあるかもしれません。 けれども、電子の居場所は1本の道としては決まりません。分かるのは、どのあたりで見つかりやすいかという広がりです。 見つかりやすい所ほど濃く塗ったこの広がりを、電子の雲と呼びます。 惑星の絵は、電子の段を数えるには便利ですが、電子の広がり方は表していません。

電子の雲の形とエネルギー準位の高さは、シュレディンガー方程式という式を解くと求まります。 この式を解いて電子の雲とエネルギーを求める分野を量子化学、コンピュータで解くことを量子化学計算といいます。

量子化学計算では、原子核を止めて、電子だけを計算します。陽子1個でも電子の約1840倍の質量があり、電子が動くあいだ、原子核はほとんど止まって見えるからです。 つぶとばねのモデルとは逆に、原子核の動きを省くのです。また、電子どうしのかかわりはそのままでは複雑すぎるので、 それぞれの電子が、ほかの電子の雲を平均した力を受けると考える近似(本当の答えに近く、計算しやすい答えを使うこと)を使います。

ナトリウム原子の段差を計算すると 2.09 eV、割り算をすると 593 nm の黄色です。実測の 589 nm に近い値が、炎に入れる前に得られます。

手で1回:水素原子の雲の大きさ

電子の雲を求める手がかりは、エネルギーです。電子の雲は、エネルギーがいちばん低くなる形に落ち着きます。 電子のエネルギーは、2つの分の足し算です。1つは原子核と引き合う分で、雲を原子核に近づけるほど下がります。 もう1つは電子の動きの分です。電子には狭い所に閉じこめるほど激しく動く性質があるので、雲を縮めるほど上がります。

電子が1個だけの水素原子で、雲の大きさだけを変えて試します。雲を小さくしていくと、エネルギーの合計はどうなるでしょうか。 答えは、ある大きさでいちばん低くなり、それより小さくすると上がる、です。

水素原子の電子の雲の半径を変えたときのエネルギー。閉じこめで上がる分と引き合いで下がる分の合計は、半径0.053 nmでいちばん低い−13.6 eVになる。
水素原子の電子の雲の半径と、エネルギー(研究室で計算した値)。丸が手で試した3通りの大きさで、丸の上の絵は、その大きさの雲の切り口です。

半径 0.053 nm の雲では、閉じこめで上がる分が +13.6 eV、引き合いで下がる分が −27.2 eV で、合計は −13.6 eV です。 半径を半分の 0.026 nm にすると、下がる分は2倍の −54.4 eV、上がる分は4倍の +54.4 eV になり、合計は 0 eV まで上がってしまいます。 水素原子から電子を取り去るのに要るのは 13.6 eV となり、実測のイオン化エネルギー(13.6 eV)と一致します。

くり返し:電子がたくさんあるとき

水分子には電子が10個あります。それぞれの電子は、原子核に引かれるだけでなく、ほかの電子の雲からも反発されます。 ところが、ほかの電子の雲も、まわりの電子の雲しだいで変わります。どの電子の雲も、ほかの雲が分からないと決まりません。

そこでコンピュータは、まず全部の電子の雲を仮に置き、その雲から電子が受ける力を計算し、電子1個ずつエネルギーがいちばん低くなる雲を探します。 新しい雲がそろったら力を計算し直し、また雲を探す。これを雲が変わらなくなるまでくり返します。

電子の雲を仮に置き、力を計算し、雲を求め直すくり返しの図。水分子でOのまわりの電子の数は7.9個、9.1個、8.3個と行き来し、3回目から8.8個に落ち着き、7回目で雲が変わらなくなる。
電子の雲を求めるくり返し(上)と、水分子で計算した回ごとの雲(下)。下の段は、各回の雲と最後の雲との差を、分子の平面での切り口で塗りました。ローズは最後の雲より電子が多い所、青は少ない所です。O のまわりの電子の数は、電子を原子ごとに分ける分け方で少し変わります。

原子を並べただけの雲で 7.9 個だった O のまわりの電子は、1回目に寄りすぎて 9.1 個、2回目に押し戻されすぎて 8.3 個。 前の回までの雲も混ぜて行き過ぎを抑えると、3回目で 8.81 個、4回目で 8.79 個になり、7回目で雲が変わらなくなりました。

テオ

テオ

仮に置いては、求め直す。地道だが、水分子なら 7 回でつじつまが合う。√2 を 1.4、1.41 と詰めていくのと同じ進め方だ。

コンピュータは、原子核の種類と位置、電子の数を受けとり、電子の雲をエネルギーがいちばん低くなるように求め直すことを、変わらなくなるまでくり返します。 返ってくる電子の雲とエネルギー準位から、光の色や、分子の中の電荷のかたよりが分かります。

電荷のかたより

最後の 8.79 個は、O 原子の電子8個より多い数です。このかたよりの手がかりは、電気陰性度(結合の電子を、原子がどれだけ強く引きつけるかの目安)です。 O は 3.44 で、H の 2.20 よりずっと大きいので、結合の電子は O の側に引き寄せられ、O はわずかにマイナス(δ−)、H はわずかにプラス(δ+)に帯電します。 C と H の差は 0.35 しかないので、C–H の結合にはかたよりがほとんどありません。

電子の雲を計算すると、このかたよりを分子の形にそって確かめられます。雲がごく薄くなる所を表面と決め、 マイナスに寄る所をローズ、プラスに寄る所を青で塗り分けると、メタンはどう見えるでしょうか。

水・アンモニア・メタンの電子の雲の表面を、電荷のかたよりで塗り分けた図。水のOとアンモニアのNの側はマイナス、Hの側はプラスで、メタンはほとんど白い。
量子化学計算で、電子の雲の表面を電荷のかたよりで塗り分けた図。原子の記号は、その奥にある原子核の位置です。3つの分子で同じ色の目盛りを使っています。

答えは、ほとんど白です。水では O の側がローズ、2つの H の側が青、アンモニアでも N の側がローズ、H の側が青になりました。 第 1 章の力場でつぶに割りふった δ− と δ+ を、電子の雲から確かめたことになります。 このかたよりが、水素結合のもとです。O–H や N–H をもつ分子が水になじみやすいことは、第 4 章の、薬が水と油のどちらになじむかという話につながります。

色を計算で予測する

分子でも、電子の雲とエネルギー準位を計算すれば段差が分かり、割り算で光の波長が分かります。分子の形も計算で求められるので、まだ作っていない分子でも計算できます。

例として、炭素の鎖に二重結合と単結合が交互に並んだ分子を考えます。二重結合が1個のエチレン(C₂H₄)から、鎖を1段ずつ伸ばしていきます。 鎖を長くすると、段差に見合う光の波長は長くなるでしょうか、短くなるでしょうか。

二重結合の数を1から8へ増やすと、段差に見合う光の波長が150 nmから423 nmへ長くなるグラフ。7個あたりから目に見える光の範囲に入る。
二重結合と単結合が交互に並んだ炭素の鎖の、段差に見合う光の波長(研究室で計算した値)。左の色の帯は目に見える光の範囲で、帯の色は、その波長の光の色です(分子そのものが見える色ではありません)。

答えは、長くなる、です。鎖が長いほど電子の雲が鎖にそって遠くまで広がれるようになり、段差が小さくなるからです。 エチレンでは 150 nm で、目に見えない紫外線です。二重結合が7個の分子(395 nm)で、目に見える光の紫の端に入りました。

ただし、光のやりとりの向きは炎とは逆です。炎の原子は段差に見合う光を出しますが、色素の分子は白い光の中から段差に見合う光を受けとり、私たちは残りの光の色を見ます。 植物に多い色素の β-カロテンは、二重結合が11個つながった長い鎖をもち、青い光を受けとるので、赤橙色に見えます。

テラ

テラ

にんじんの橙色も、β-カロテンの色だよ! 長い鎖が青い光を受けとるから、残りの橙色が目に届くんだ。

スマホやテレビの画面には、分子に電気を流して光らせる有機 EL を使ったものがあります。 2016年に報告された研究では、光らせる分子の候補を160万個考え、40万個を超える分子の光り方を量子化学計算で求めて、有望な分子を何千個も見つけました。 そこから選んだ分子だけを実際に作って確かめています。

重さと、近似の選び方

量子化学計算は、電子が増えると急に重くなります。炭素の鎖の分子で、電子の雲を求める時間をパソコンの計算の部品(コア)1つで測ると、電子16個のエチレンは0.5秒ほど、電子170個の分子では4分近くかかりました。 電子の数が2倍になると、この分子の例では、時間はおよそ5倍です(何倍になるかは、分子や近似で変わります)。1分子4分なら、40万個では1コアで休まず計算して3年ほどになります。

答えは、選んだ近似によっても変わります。ナトリウム原子の段差を、電子どうしのかかわりの見積もり方がちがう3つの近似で計算すると、波長は 557 nm から 628 nm まで分かれました。

ナトリウムの光の波長。実測589 nmに対し、近似1は593 nm、近似2は557 nm、近似3は628 nm。
ナトリウム原子の段差を3つの近似で計算して求めた光の波長と、実測の波長。近似1〜3は、電子どうしのかかわりの見積もり方がちがう方法です。

計算した色は、黄緑から橙まで変わります。そのため分子の計算では、実測と比べて、その種類の分子によく合う近似を選びます。 まわりの水や、熱による分子の動きも省いています。計算をどこまで信じてよいかは、第 6 章で答え合わせをします。

電子の雲を計算すれば、作る前に分子の光の色を予測できます。ただし、電子が増えると計算は急に重くなり、近似の選び方で計算した色も変わります。

1億年前のホタルの光

ホタルの光は、ルシフェリンという分子が、ルシフェラーゼという酵素のはたらきで反応して出る光です。光の色は、ルシフェラーゼの形によって決まります。 2020年、中部大学の大場裕一さんたちは、今のホタルの遺伝子をもとに、約1億年前の祖先のホタルのルシフェラーゼを復元しました。 光らせて測ると、光がいちばん強い波長は 548 nm の緑で、今のゲンジボタルの酵素が出す光(562 nm)より少し短い波長でした。

なぜ色が変わるのかは、量子化学計算で調べられています。光る分子とまわりのアミノ酸をいっしょに計算した研究では、 計算した光の色が実測に近くなり、まわりのアミノ酸などの電荷が、光の色を決めるうえで大事なはたらきをしていることが示されました。

🖐 さわってみよう本の図 2-18

ホタルの光の色

つまみやボタンで光の波長を変えて、今のゲンジボタルの黄緑(562 nm)と、約1億年前の祖先の緑(548 nm)をくらべてみてください。

赤い光のボタンは、体の奥を光で見る研究のためのものです。明るさの変化はイメージで、計算そのものではありません。

山本研究室の光化学チームは、ここで見た量子化学計算で、光る分子の電子に何が起きているかを追っています。 光る分子とタンパク質をあわせて計算し、祖先と今の酵素を比べて、どのアミノ酸の入れかわりが色を変えたのかに迫ります。 体の奥のがん細胞を光で見つけるには赤い側の光が有利ですが、赤くすると暗くなりやすい。色と明るさを両立する光る分子の設計も、計算から探っています。

3つの問いで読む

量子化学のまとめ

何をモデルにしたか(省いたもの)
原子核を止めて、電子だけを考える。電子どうしのかかわりは近似する
何をくり返したか
電子の雲を計算し、エネルギーの段差から光の色を求める
どこまで信じられるか
近似の選び方で、色の予測に誤差が出る。大きな分子は計算が重い
Web 版の目次
  1. 序章 コンピュータのなかの実験室
  2. 第 1 章 分子の動きを「見る」(分子動力学)
  3. 第 2 章 電子を「見る」(量子化学)
  4. 第 3 章 薬の候補を「探す」(ドッキング)
  5. 第 4 章 体に届くかを「予測する」(原子寄与法)
  6. 第 5 章 データから「学ぶ」(機械学習)
  7. 第 6 章 計算を信じてよいか(実験との答え合わせ)
  8. 終章 計算化学が切り拓く未来(材料の設計)