インフルエンザの薬は、どうやって生まれるのでしょうか。薬は、何十万個もの化合物を作って試した中から、ようやく見つかります。 新しい薬が1つできるまでには、9〜17年かかります。 作って試す前に、当たりそうな分子をコンピュータの中で選べないでしょうか。 この章では、コンピュータが何億個もの分子を試して、薬の候補を絞りこむしくみを紹介します。
インフルエンザウイルスが増えるしくみ
まず、何を止めればウイルスが広がらなくなるのかを見ておきます。ウイルスの表面には、2種類のタンパク質が突き出ています。1つはヘマグルチニンです。 細胞の表面には糖の鎖がたくさん生えていて、その端にはシアル酸という分子がついています。 ヘマグルチニンは、このシアル酸に結合して、ウイルスを細胞につなぎとめます。
🖐 さわってみよう本の図 3-1
インフルエンザウイルスが増えるサイクル
細胞にくっついて中に入り、コピーを作らせて、外へ出ていくまでの場面がくり返し流れます。
①〜⑥の場面の区切り方は、本の図 3-1 と少しちがいます。
細胞の中で増えたウイルスは、細胞の膜をかぶって外へ出てきます。ところが、新しいウイルスのヘマグルチニンも、細胞の表面のシアル酸に結合してしまいます。 このままでは、ウイルスは細胞から離れられません。そこで、もう1つのタンパク質であるノイラミニダーゼが、糖の鎖からシアル酸を切りはなします。 こうしてウイルスは細胞から離れ、まわりの細胞へ広がっていきます。
ノイラミニダーゼのように、ほかの分子の反応を進めるタンパク質を酵素と呼びます。 酵素の表面には、相手の分子(基質)を受けとめて反応を進めるくぼみがあります。この場所を活性部位と呼びます。 ノイラミニダーゼの活性部位に別の分子が結合してシアル酸が入れなくなれば、新しいウイルスは細胞に結合したままになり、まわりへ広がれません。 酵素のはたらきを止める分子を阻害剤といいます。インフルエンザの薬を探すには、ノイラミニダーゼの阻害剤を探せばよいのです。
🖐 さわってみよう本の図 3-3
はさみ(ノイラミニダーゼ)を止める
「薬なし」と「薬あり」を切りかえてみてください。阻害剤がはさみのくぼみにはまると、増えたウイルスが細胞から離れられなくなります。
薬の候補を実験で試す
ある分子が阻害剤になるかどうかは、実験で確かめられます。ノイラミニダーゼと、切られると光る目印をつないだ基質を、試験管で混ぜます。 候補の分子を入れたとき、光が強くなる速さが落ちれば、その分子はノイラミニダーゼを阻害しています。
ただし、この実験をするには、候補の分子を1つずつ作らなければなりません。 日本の製薬会社が2015〜2019年の5年間に、あらゆる病気の薬の候補として合成した化合物は、545,967個です。 このうち、薬として承認されたのは何個だと思いますか。
答えは24個です。およそ2.3万個を作って、ようやく1個が薬になる計算です。
活性部位に結合する2つの条件
酵素と基質の関係は、よく鍵と鍵穴にたとえられます。鍵穴に入って錠を回せるのは、決まった形の鍵だけです。 同じように、活性部位の形に合う分子だけが、活性部位に入れます。
ただし、形が合うだけでは足りません。活性部位に入った分子は、まわりの原子と引き合わないと、すぐに外へ出ていってしまいます。 分子が活性部位に結合するには、形が合うことと、引き合うことの2つが必要です。
鍵と鍵穴のたとえには、合わない所もあります。金属の鍵穴とちがって、本当の活性部位も分子も、熱運動で少しずつ形を変えながら動いています(第 1 章)。
形が合うかどうかも、どこで引き合うかも、原子の位置が分からなければ分かりません。タンパク質の中で原子が3次元に並んだようすを立体構造と呼びます。 立体構造は、タンパク質の結晶にX線を当てて調べる、X線結晶構造解析という方法で決めます。ノイラミニダーゼの立体構造は1983年に決まり、活性部位の形が分かりました。
活性部位で分子が引き合う主なしくみは、水素結合と静電気力(プラスとマイナスの電荷が引き合う力)です。 ノイラミニダーゼの活性部位には、プラスの電荷をもつアルギニンというアミノ酸が3つ並んでいます。 シアル酸のカルボキシ基(COOH)は、体の中の水ではH+を放して、マイナスの電荷をもつCOO−になっています。 このCOO−が3つのアルギニンと引き合うことで、シアル酸は活性部位に結合します。 このような、プラスとマイナスのイオンどうしの結びつきを塩橋と呼びます。
コンピュータの中で1つ試す:ドッキング
原子の位置が分かれば、形が合うかどうかも、どこで引き合うかも計算できます。 候補の分子を活性部位に置いてみて、結合の強さを点数にする計算をドッキングと呼びます。
コンピュータに渡すのは、活性部位の立体構造と、試したい候補の分子の2つです。分子は、単結合のまわりで原子のまとまりが回るので、形を少しずつ変えられます。 コンピュータは、候補の分子を活性部位の中に置き、向きや形を変えながら結合の強さを点数にして、いちばん点数の高い置き方とその点数を返します。 活性部位の中で分子がとる位置と向きを、結合ポーズといいます。
点数の付け方を、手で1回やってみます。ここでは、考え方が分かるように簡単な決め方を使います。 水素結合が1本できるごとに1点、塩橋が1本できるごとに2点を加えます。原子どうしがぶつかって重なる所が1か所あるごとに、3点を引きます。
この置き方では、水素結合が2本、塩橋が1本でき、ぶつかりはありません。点数は1+1+2=4点です。 同じ分子でも、向きを変えると、引き合う相手が入れかわったり、壁にぶつかったりして、点数が上下します。
実際のドッキングでも、考え方は同じです。ただし、形の重なり、水素結合、静電気力などの項を、原子どうしの距離から計算して足し合わせる、もっとていねいな式を使います。 この点数の式をスコア関数と呼びます。
では、大きすぎる分子、小さすぎる分子、形は合うが引き合わない分子、形も引き合いも合う分子では、どれの点数がいちばん高いでしょうか。 答えは、形も引き合いも合う分子です。大きすぎる分子は活性部位の壁にぶつかり、小さすぎる分子は、水素結合の相手のいる壁まで原子が届きません。 上の簡単な決め方では、形がぴったりでも、引き合う原子をもたない分子の点数は上がりません。
下の動く図は、上から見た2次元に簡単にした絵です。形も手も合う分子を入れたら「回す」で向きを変えてみてください。手がつながらなくなります。
🖐 さわってみよう本の図 3-6・3-13
くぼみにはまる分子はどれ?
4つの候補(大きすぎる・形は合うが手がない・形も手も合う・小さすぎる)のボタンを押すと、その分子がくぼみ(活性部位)に入ります。順に試してみてください。形が合うことと、引き合う相手(水素結合の手)がいることの2つがそろうと、はまり度が高くなります。
はまり度は説明用の目安で、本の図 3-11 の点数の付け方とは別のものです。
何億個をふるいにかける:バーチャルスクリーニング
ドッキングでは、向きと形を変えながら、たくさんの置き方を試します。 2019年に報告された研究では、細菌の酵素へのドッキングで、分子1個あたり平均で約4,000の向きと、それぞれの向きで約280の形を試しました。 合わせると、分子1個につき100万通りを超える置き方を点数にしています。手で数えた1回を、100万回以上くり返すのです。
この計算を、たくさんの分子でくり返します。候補になる分子の集まりを、化合物ライブラリといいます。 ライブラリの分子を1つずつドッキングし、点数の高いものだけを残します。このコンピュータの中でのふるい分けを、バーチャルスクリーニングと呼びます。
🖐 さわってみよう本の図 3-14
コンピュータで、一気にふるいにかける
「スタート」を押すと、候補の分子をコンピュータが次々に調べて、点数の高いものだけを皿に残します。
数の増え方はイメージです。本物のバーチャルスクリーニングでは、何億個もの分子を調べます。
2019年の研究では、注文すれば作れる1億個を超える分子を集め、細菌の酵素では9,900万個を試しました。 その多くは、まだ作られたことのない分子です。合成するのは、点数が上位の分子だけです。 2020年には、10億個を超える分子をふるいにかけた報告もあります。分子1個のドッキングに平均15秒かかるとすると、コア(計算をする部品)1個では475年かかります。 1万個のコアを同時に使えば、約2週間で終わる計算です。
では、点数が上位の分子は、本当に阻害剤になるのでしょうか。細菌の酵素では、上位から選んで作った44個の分子を実験で試すと、5個(11%)が当たりでした。 もう1つのタンパク質では、点数がいちばん高い範囲で、当たりの割合が24%ほどでした。上位の分子でも、当たりは1〜2割ほどで、7〜9割は外れです。 計算では当たりに見えたのに、実験では結合しない分子を、偽陽性(偽の当たり)と呼びます。 ドッキングでは、結合ポーズは比較的よく当たりますが、結合の強さや分子の順位はあまり当たりません。
偽陽性が出る理由は、モデルが省いたものにあります。ドッキングでは、活性部位をほとんど動かない形とみなし、本当は動いているタンパク質の形の変化を省いています。 活性部位のまわりの水も、省くか、簡単に表すだけです。そして、結合の強さそのものを計算するのではなく、点数の式で見積もっています。 どのくらい当たるのかは、第 6 章「計算を信じてよいか」で、ほかの計算とあわせて答え合わせをします。
計算から生まれた薬
今も使われているインフルエンザの薬のうち2つは、活性部位の立体構造をもとに、コンピュータを使って設計されました。
1つ目は、ザナミビル(商品名リレンザ)です。研究者たちは、活性部位のどこに、どんな原子のまとまりを置くと強く引き合うかを、コンピュータで調べました。 シアル酸に似た分子のO–Hの1つを、体の中でプラスの電荷をもつ大きなグアニジノ基に置きかえ、近くにあるマイナスのアミノ酸と静電気力で引き合うようにしたのが、ザナミビルです。
2つ目は、オセルタミビル(商品名タミフル)です。ザナミビルではO–Hが3つ並んだ側鎖がある場所に、オセルタミビルは、Oを1つはさんで、炭素と水素だけの枝をつけています。 この枝が、活性部位の中にある疎水性(水になじみにくく、油になじみやすい性質)の小さなすき間に入りこむので、オセルタミビルは活性部位に強く結合します。
🖐 さわってみよう本の図 3-15
ザナミビルとオセルタミビルを回す
2つの薬の分子を、同じ向きに並べました。ドラッグすると、2つが同じように回ります。真ん中の環と、まわりの飾りの並び方を比べてみてください。
オセルタミビルは飲む前の形(端がエステル)です。体の中でエステルが外れて、効く形になります(第 4 章)。
どちらの薬も、同じ活性部位に結合して、ノイラミニダーゼを阻害します。ところが、リレンザは粉末を吸いこむ吸入薬で、タミフルはカプセルを飲みこむ飲み薬です。 活性部位に強く結合しても、飲んだ薬が体の中で作用する場所まで届かなければ効きません。なぜ体に入れる道筋がちがうのかは、第 4 章で考えます。
ウイルスが増えるとき、タンパク質のアミノ酸が入れかわる(変異する)ことがあります。変異によって薬が効きにくくなることを薬剤耐性と呼びます。 タミフルが効きにくくなったウイルスでは、ノイラミニダーゼのアミノ酸が1つ入れかわり、タミフルの側鎖が入るすき間がうまくできなくなっていました。リレンザは変わらず強く阻害しました。
山本研究室の生物物理チームは、北海道大学 人獣共通感染症国際共同研究所と共同で、この薬剤耐性が分子のレベルでどう起きるのかを調べています。 薬とタンパク質の結合の強さを、分子動力学を使ったていねいな計算(自由エネルギー計算)で見積もり、ひとつの変異が結合をどれだけ弱めるのかを確かめます。チームのページでは、変異でくぼみの「手」が失われ、結合が弱くなるしくみのイメージを動く図で試せます。 くぼみにはまる分子を探して、体に届く薬に直すまでは、創薬ミッションで順にたどれます。

